もちろん自分の手で家を建てるなんて考えてもみなかった。
ボクはひどく慎重で、ケチだ。普通の日本人はスーパーでの買い物では10円でも安いものを買おうとするのに、いざ数千万円もする家を作るというとほとんどメーカー任せで、ホントの内容や品質を理解してから契約する建主が何パーセントぐらいいるだろうか?ボクも最初はただ「金が無いから安く、安く」というお決まりの文句ばかり言っていた。こういう人はメーカーにとってまさに「カモ」、何も知らないということの裏返しだということがわかった。図書館に通い、毎日建築関係の本を読みあさり、住宅展示場に行き(完成した”うわべ”しか見られないため、これはあまり参考にならない)知人の建築士と話を交わすうち業界の実態がわかってきた。自分としても、おそらく一生住みつづけ、大金はたくのに見積りすらよく理解できないことがそもそも嫌だったのだ。そして、「日曜大工で我が家を建てた」という本を見つけたのがセルフビルド(自分で建てる)をやろうというきっかけになった。この本のおかげで自分の住む家ぐらいならこの手で出来そうだと思ってしまったのだ。実際は大工さんより3倍は多く時間がかかるから手間賃を考えると、自分でやっても頼んでもあまりコストにはかわりないようだが。違うのはやはり見積もりを見る力、自分が関わるとなると不明点は本気で調べる。ひとつひとつ無駄を省き、コストをかけるところはかけて、自分にあった設計をつめていく。基礎や断熱、暖房、換気には頭と金を使い、押入れや和室はとりあえず作らない、便器は高いもの、便座は安いもの、フロやシャワー、窓は展示品や在庫品。照明は安くてよい、清掃などはもちろん自分でやる。給湯ボイラーのひとつは中古品、家の形状は一番使用効率の良い総二階の三角屋根だ。こうして通常の家の半分から三分の二ほどのコストで満足のいく設計、デザインができたのだった。 住んでから時間が経つほど満足のいき、かつ低コスト、ハイクオリティーの家をお考えでしたら「風景画」においでください・・・?
はれて清里町の住人になり子供らも保育所が斜里から清里に変わった。最初は新しい環境にすぐに馴染めるか、新入りでいじめられたりしないか(特に下の娘は体が小さいので)心配したがそこは子供の力、1週間もすると「今日は、誰ちゃんと遊んだ」と毎日出来事を話すようになった。そのうち仲良しグループも出来て送りの車から降ろすと飛ぶように保育所に入っていく。ウチの地区は農家地区といってスクールバスも走っていないので毎日送り迎えしなくてはならない。この送迎を高校までやらねばならないから、そのことは負担と思わず日課と思わねばならない。それにしても・・過疎は深刻だ。去年清里町では生まれた子供が30人もいないらしい。人口5000人の町が毎年50人ずつ以上減っている。100年後には計算上ゼロになる。北海道は大都市以外ひどい過疎。子供も保育所から高校までほとんど学年1~2クラスしかないから最長15年ぐらいずっとおなじクラスメイトだ。こうなると皆兄弟、社会教育上好ましいかどうかはべつとして皆、性格の奥まで知り尽くしている。高校の電車通学などは3年間皆が決まった場所に座るそうだ。こんなに設備も人も気候も自然も素晴らしいところなのにどんどん人がいなくなる。なんか世の中変だ。
4月に引越した一番の理由は夏の繁忙期までに宿を開業したかったからだ。一番最初の予定は失業保険をもらいつつ大工仕事をやって給付期間内に完成させてしまうつもりであったがそんな180日という時間は専業主夫のときにあっという間にすぎ、農地の転用が済むまでにさらに半年が過ぎた。その間、建設作業員、大工、配管工、山岳やカヌーのガイドなどをやってなんとかしのいできた。とにかく生活のための金だ、労働だ、という感じであったがなるべく建築とアウトドアに関わる仕事がしたかったのだ。そしてとりあえず引越し、一気に仕上げて夏のお客さんの来るまでに開業・・・・と、そんなあまいものではなかった。グラスウールにむせて、石膏ボードで鼻は真黒、ひどい肉体疲労とリポビタンDの毎日、たまに切る木材の臭いと感触に優しさを感じ、やっぱり工業製品でない天然木はいいものだ、なんてのんきなことをいっているうちに早くも夏、要所で大工さんに手伝ってもらったりしたが保健所の営業許可を取るための仕上げ等を考えると夏の繁忙期にも間に合わないとわかったのであった。そのために早く引っ越したのに・・・大きな収入源を逃したような気持ち、そして先行き不安感から妻はますます気が滅入っていったらしい。もちろんボクもだけど・・